気まぐれ日記 07年10月


07年9月はここ

10月1日(月)「講演風景がビデオで公開・・・の風さん」
 ついこの間まで酷暑、猛暑、アンビリーバボーな残暑と語り合っていたのが、一気に晩秋のような気候である。今朝は用意した半袖ワイシャツを長袖に変えて出社した。それでも、職場では熱くなる体質(?)なので、半袖の現場服に着替えてラジオ体操に並んだら、「半袖じゃ風邪ひきますよ」と声をかけられた。
 会社は下期に入った。職場にまた新しい仲間が増え、心機一転、活気が出ている。
 今週は長女、次女の誕生日があるので、希望のプレゼントを買って帰った。レジでラッピングを頼んだとき、長女の方の包装紙に、次女に選んだ熊のイラストと違うのを選んだら、首をかしげられた。「長女はコックなんですよ」と答えたら、「すごいですね」と言われた。そのイラストはコックさんだった。
 今年3月31日、埼玉教育会館で講演をした。日本数学会主催の市民講演会だった。そのときの模様がホームページでビデオ公開されている。また、『数学通信』に寄稿した講演録もPDFで見ることができる。これからしばらく鳴海風が人前に出る機会が続くが、年が明けたら、また執筆のために深く潜行したい。ご覧になりたい方は、ここから。

10月2日(火)「ゴキハンターは健在・・・の風さん」
 10月はスケジュールがてんこもりである。詳細スケジュールをきちんと決めておかないと、時間を効率的に使うことができない。しかし、あまりにもスケジュールが立て込んでいるため、詳細スケジュールの立案だけでもかなりの時間を要する。こういうときは、躊躇せずにどんどん決めていくしかない。先ず、相手がある話は、さっさと電話してアポをとってしまう。会社の出張も、固定できるスケジュールなので、意思決定して、出張届けを出してしまう。
 今日は朝一番から会社の定期健康診断だった。そのために、朝食はおろか飲食一切せずで出社した。今年の運動不足がたたって、あらゆる数値が悪化していた。このまま衰えながらも必死に多忙な生活を続け、やがて長生きを諦めて死んで行くのか、その前にあらゆる煩悩を捨てて、恬淡とした余生モードに入るのか、迷うところだが、結局前者を選んでしまうということは、まだそう簡単には死にそうもないということか。
 昨日は、5週間に1度の総合病院通いもしたし、明日は、4週間に1度の血圧経過観察、明後日は久々にバリウムを飲むことにした。
 帰宅したら、出版社から出版契約書が届いていた。新たにレンタルブックの条項などが増えていた。時代の趨勢である。
 夕食後、ソファでダウンしていたら、次女の「わぁ〜! 大きなゴキブリぃー」という悲鳴で目が覚めた。すぐに横で寝ていたゴキハンターのペコを抱き上げ、現場へ直行。人間が追えばすぐ逃げられてしまうようなすばしこいゴキでも、ペコにかかったらイチコロだ。走り回るゴキもペコの猫パーンチであえなく昏倒。しかし、この寒い夜に、なぜこんな大きなゴキが……、と次女と二人で息を飲んだ。

10月3日(水)「ダウンしてばかり・・・の風さん」
 昨日の定期健康診断で、機械で測ったら血圧が高かった。今日は、診療所のドクターにその旨説明したあと、聴診器と器具を使って測定してもらった。すると、124−76と低かった。そもそも血圧は日中でも変動する。しかし、ここの診療所で測ってもらうと、ドクターが違っても値は低い。もしかして器具が壊れていたりして……。
 午後は会議が集中したので、少し疲れて帰宅。はたして、夕食後ダウン。いつも信じられない深夜に就寝するワイフが書斎のドアを開けたら、床で寝ていた私の頭に当たった(笑)。
 こんなことではいけない、と思い、やおら起き上がってパソコンに向かった。
 注)上の文章で「やおら」という副詞を使用したが、ついこの間まで「いきなり」という意味だと錯覚していた。正しい意味は「そろそろ、おもむろに、しずかに」である。プロの小説家として恥ずかしい。
 I新書向けの原稿に着手した。第一章に入る前に、「はじめに」というのを書いてみた。なーんだ、書けるんじゃん。
 安心して入浴して寝た……が、なかなか寝付けなかった(当然か)。

10月4日(木)「バリウム検査・・・の風さん」
 6時半に起床。ベッドの上での睡眠は3時間ほどだった(笑)。
 ミッシェルで有料道路を突っ走って本社へ。仕事ではない。本社の診療所で、バリウムを飲んで胃のレントゲン写真を撮ってもらうのだ。
 40歳になって初めてバリウムを飲んだ。特に胃の不調を感じていなかった私は、何の気なしにバリウムを飲んだ。新しいことを経験するのは好きだったし。そしたら、2次検査になった。胃カメラである。これも、ちょっと怖かったが、「何事も経験!」の前向き姿勢で挑戦した。……が、ひどい目にあった。涙とよだれで顔をくしゃくしゃにしながら苦痛に耐えたのだが、技師や看護婦は同情や激励のひと言もなく、私を検体のごとく扱った。結果は、「少し胃壁が荒れていますが、心配ありません」だった。
 以来、バリウム検査の拒否が続いた。
 40代半ばを過ぎたころ、再びバリウム検査をしてみる気になった。今度は地元の保健所のようなところである。半日コースの人間ドックで、スピーディかつ患者の扱いが丁寧で好感が持てた。やはり2次検査になったが、好きな病院で受けてよいとのことだった。会社の同僚が薦める「麻酔をして胃カメラ検査をしてくれる」病院へ行った。お蔭で何の苦痛も感じずに、検査を終え、なかなか麻酔から覚めない私は、看護婦さんたちが心配するほど爆睡してしまった。よほど日頃の疲労がたまっていたのだ。結果は、「小さなポリープがありますが、良性なので心配なし」とのことだった。
 それから5年以上が経過していた。その間に、会社の診療所では、胃カメラ検査を中止していた。2次検査になっても(多分なるだろう)、またあの病院へ行けばいいのだ。
 撮影はくるくる回転したり、体をひねったり、お腹を押されたり、以前と同様に疲れるものだった。
 残る課題はバリウムの排泄である。
 下剤を飲まされ、昼までにコンビニで買った健康ドリンクを500cc飲んだ。昼食後も牛乳を飲み、午後はヒマさえあれば何か飲んでいた。
 今日は、出版社から初めての文庫書き下ろし『美しき魔方陣』が、段ボール箱でどっさり届くはずだった。ウキウキと帰宅したが、届いていなかった。どうしてだろう?
 就寝前にも冷たい牛乳を500ccくらい一気飲みしたが、今日の数度のトイレ通いでも、昨日までにたまっていた分が出たぐらいで、バリウムは出なかったと思う。
 文庫は届かないわ、バリウムは出ないわで、スッキリしない1日になってしまった。

10月5日(金)「知人に届く新刊が私には届かない・・・の風さん」
 今日は実に清々しい青空が広がった。私が秋が好きなのは、こういう天気の日があるからだ。
 予定通りに『美しき魔方陣』が届かなかったので、小学館へ確認依頼の電話をした。確認作業はけっこう手間取って、午後になってやっと事態が判明した。拙宅への送付指示が、途中で停滞していたらしい。すぐさまエクスプレス扱いで処理してくれたらしく、明日の午後には届くとのことだった。このことが判明したのと同じころ、重く停滞していたバリウムが体外に出たらしく、これで内外の憂鬱が一気に解決した(と言って笑える話ではないが)。
 こちらから宛名シールを送って個別配送してもらった献本は、昨日から届き始めたらしく、あちこちからお礼のメールや中にはハガキまでが届き出した。こっちはまだ現物を見ていないのだが、愚痴を一切言わずに、そういったメールに丁寧に返信を続けた。本当にうれしいメールやありがたいメールが多いのである。
 来月のイベントだが、22日のジュンク堂トークセッションのチラシ原稿を送った。これはすぐにホームページにアップされた。ついでに、『美しき魔方陣』のオリジナルポップを作成しpdf化して送付した。向こうで印刷して販売促進に使用してくれるらしい。
 また、翌23日の幕末史研究会例会のための講演予告チラシも作成して送った。これは、今月の例会で参加者に印刷して配布してくれるとのこと。
 昨日までに『美しき魔方陣』が届かなかったので、会社の出張に持参して、知り合いに宣伝・販売する機会を失ったのが痛かった。3年前から用意してある達磨にも目が入れられないし、ワイフが用意したスパークリングワインも開けられない。

10月6日(土)「初めての文庫書き下ろしに満足・・・の風さん」
 やっと『美しき魔方陣』が届いた! 本物の装丁も、解説文も初めて目にするのだ。装丁の方は、出版社から前もって転送してもらった「案」を、こちらで再現して大いに満足していたので、本物を見てそれをあらためて確認できた。タイトル通りの美しいデザインだ。編集者が工夫したキャッチコピーも読者の購買意欲をあおるだろう。
 解説文は、私のことを駆け出しのころから熟知している磯貝勝太郎さんにお願いしたので、これはもう非の打ち所のない内容になっている。感謝・感激である。
 早速、お二人には礼状を作成した。
 今回は、著者の写真(日本推理作家協会のホームページの名簿に登録してあるものと同じ)をつけたし、登場人物一覧もある。ルビが一段と多く振ってあり、読みやすいと思う。それに、本文中に図や数式を入れたのも初めてである。色々な試みをしたのは、読者へのアッピールを考えてのことだ。ついでにちょこっと「あとがき」まで書かせてもらった。
 これだけてんこもりの文庫だが、値段はすごく安い(笑)。
 さて、現物が届けば、やることはたくさんある。先ず、亡父の位牌の前に供え、続けて近所の図書館と菩提寺へ届けた。
 これで、ようやく自分の本が完成したことを実感することができ、喜びがじわじわとこみあげてくるのだ。その間にも、あちこちから「届いたよ。ありがとう」メールが来る。
 久しぶりにゆっくり入浴し、達磨(中サイズ)に目を入れ、スパークリングワインで乾杯することができた。

10月7日(日)「今日も出版後の雑事・・・の風さん」
 今日は朝から空がどんよりとしていて、雨がぱらつきそうな天気だった。こういう時は、どんどん仕事をしなければ……。
 昨夜用意したお礼の手紙類を投函に行き、次の準備のために切手類を購入して帰った。
 帰ってきてから、母校の図書館への寄贈の準備や、同じく母校の学生新聞への書評依頼に没頭した。
 あと、明日からプライベートと仕事で出かけるので、その詳細スケジュール作りにかなり時間をかけた。私はマルチな顔を持っているので、外へ出ると、何人分ものスケジュールをこなさなければならないのだ。完成したスケジュール表をケータイへデータ転送し、プリントアウトしたものはワイフへ渡す。外出先でぶっ倒れた場合、やはり家族が一番困るだろう(汗)。
 夕方少し雨が降った。人間が何をしていようと、自然の歩みは泰然と進んでいく。自然にさからうような無茶はやってはいけないのだが、なかなか悟りは開けない。ときどき佐藤一斎の『言志四録』を読んで、己に言い聞かせるのが関の山である。

10月8日(月)「久しぶりに母を訪問・・・の風さん」
 久しぶりに福島に住む母の様子を見に出かけた。父が死んで母は一人暮らしになったが、気丈な母は誰の力も借りずに(借りようとせずに)気ままな生活を送っている。私が母の歳なら、家族だけでなく、多くの人たちに大事にされながら、楽しく暮らしたいので、かわい子ぶりっ子で生きているだろうと思う(わがままなお前にゃ無理だ、と突っ込む人も多いかもしれないが)。
 ついでに、東京でも作家活動をしようと、ばらまく本を28冊と読む予定の本を2冊用意した。すべて文庫なので、何とか持てる。
 空模様が怪しい中、最寄の駅から出発。名古屋まではぼんやりしていた。連日、色々なことをこなしているが、学会発表準備と次の執筆に手がつかないでいる。それが気になってしようがない。
 名古屋で予定していた新幹線の指定席を取ろうとしたら、満席だったので、自由席に乗ることにした。自由席はがらがらに空いていた。ここから、持参の文庫を読み出した。今年2月の咸臨丸子孫の会総会で、合田一道さんから頂戴した『現場検証 昭和戦前の事件簿』(幻冬舎文庫)である。大正末年から昭和初期、太平洋戦争終戦までのさまざまの事件を追ったドキュメンタリーである。居眠りすることなく東北新幹線でも読み続け、郡山駅に着いたときは半分読み終わっていた。
 駅前からバスに乗った。
 母と夕食を摂り、月光温泉に入ってから帰宅した。
 持参した新刊や日本数学会のパンフレット、社会人入学している大学院のパンフレットなどを自慢げに紹介したが、母にはあまり価値が分からないらしく、「こんなことしてどうなるの?」と聞いてくる。
 今年3月に日本数学会の市民講演会で講演させていただいた。そこには、兄にクルマで母を会場まで連れてきてもらったのだが、そのときも、今こうして日本数学会のパンフレットに写真が載っているということを示しても、母には息子がなぜそんなことをやっているのか、不思議でしようがないようだ。
 数日前から足が痛いと母は訴えていたが、年齢の割りにはとても元気である。

10月9日(火)「営業活動もがんばる風さんの巻」
 福島の母のところから東京へ出張した。仕事は数時間で終わるので、その前後に作家としての営業活動をした。某出版社へ届け物をした。懇意にしているギャラリーと古書店に顔を出して、新刊が出たことを宣伝し、店に置かせてもらった。
 帰りは品川から新幹線に乗った。荷物が軽くなったのが一番うれしかった。
 名古屋へ帰るまでに『現場検証』を読み終わった。今年やっと40冊目だ。さらに、藤原正彦先生の『遥かなるケンブリッジ』もかなり読み進んだ。今回の新刊『美しき魔方陣』は藤原先生へも寄贈している。文学に対してはきわめて評価の厳しい先生なので、怒られないかどうかとても心配である。
 帰宅し、メールチェックして、返信などの対応をした。出版社から直接送った方から、続々と返信が来ている。そういうメールには、来月ジュンク堂池袋本店でトークセッションをやることなどを通知している。次に、会社のメールチェックをし、処置はあまりできないものの、留守中の状況を把握した。ここまでで、いつものように午前1時を回ってしまった。ああ、明朝早いんだけどなあ。

10月10日(水)「あっという間に売れるのは文庫だから?・・・の風さん」
 6時半に起床し、本社へ出張した。『美しき魔方陣』を45冊持ち、うち30冊を本社へ持ち込んだ。上司や同僚らに現物を見せて、「よろしかったらご購入ください」とお願いした。
 製作所へ帰り着くまでに、ほとんどさばけてしまったようだ。やはり文庫は手軽で容易に手が出るのだろう。江戸時代の数学者の「美」に対する「感性」をテーマにした作品だが、もうひとつ、読み易さにこだわった。評価はこれから明らかになる。
 ま、いずれにせよ、本社分があっという間に売れてしまったようなので、製作所に持ってきた15冊の中の10冊を急遽本社へ届けることにした。
 本が売れるのはうれしいが、学会発表の準備と次の執筆が気になってしようがない。しかし、だからと言って、さっさと帰宅できない。今日は、久しぶりに現場に入って実験をすることにした。自分で設計した治具を使用した実験である。
 定時後の実験は成功した。狙った獲物を手に入れることができた。
 
10月11日(木)「営業活動後は爆睡・・・の風さん」
 色々とやることが多い中を縫って『美しき魔方陣』の宣伝・販売にも努めなければならない。今日は、製作所の昼食会でも常連の方に販売(押し売り)し、その後、製作所内の友人にもまとめて買い上げてもらった。近所の仲間に売ってくれるのだ。
 定時後、11月25日に講演をさせてもらう図書館へ出かけた。新刊の『美しき魔方陣』だけでなく、著書全部を持参して寄贈した。その理由は、講演がきっかけとなって図書館に所蔵してある拙著が一時的に払底するのは目に見えているので、焼け石に水とは分かっているが、一人でも多くの読者の目に触れられることを祈って贈呈することにしたのだ。『円周率を計算した男』を始め、目下品切れ中の『算聖伝』なども、である。
 図書館では、勤務先のOBの方も来られて、その方が持参した拙著にサインもすることになった。知人の分も含めて持って来られたので、10冊くらいあった。早速、『美しき魔方陣』も買ってもらったが、「サイン入りであと10冊売ってください」と言われてしまった。ありがたい限りである。しかし、こう書くと、商売繁盛のように思われるかもしれないが、文庫ビジネスで、こういった作家の奮闘努力はけっこう空しい面もある。なぜかと言うと、今回の『美しき魔方陣』は昨年の『ラランデの星』に比べると売価が4分の1である。つまり『美しき魔方陣』を4冊売ってやっと『ラランデの星』1冊分の売り上げと同等になるのである。
 帰りに床屋に寄って、いつも通り爆睡してから帰宅した。

10月12日(金)「新刊本チェック・・・の風さん」
 自宅最寄の駅を6時21分に出る電車で出張した。こういう早朝発の出張は苦手である。昨夜はすぐに寝たので、今朝は5時過ぎに起床したのだが、頭がボーっとしている。名古屋まで起きているのか眠っているのか分からない状態だった。
 初めてN700系の新幹線に乗車してからようやく意識がハッキリしてきたので、経営学の本を読んで勉強に専念した。来週の土日に学会があって研究発表のデビュー戦になるので、こういったことも勉強が必要である。経営学は、社会人入学して研究していること(基本的に会社でやってきた仕事)と作家業の中間に位置しているので、とても面白い。そうこうしているうちに目的の駅に着いた。
 訪問先の会社が用意したジャンボタクシーに乗って、先方に着いたのが午前10時前である。ここまで3時間半強かかったことになる。
 明日レンタカーを借りて取材に出かける計画なので、岡山駅前のホテルにチェックインした。
 これまで全く時間的な余裕がなく、明日の取材の詳細スケジュールができていない。そこで、書店に行って、ガイドブックを買おうと思った。岡山駅の周辺なら大きな書店は絶対にあると思ったのだが、通行人に尋ねるとちょっと歩かなければならない、と気の毒そうに言う。歩くのは平気なので、教えてもらった通りにずんずん歩いて行った。本当に歩くのは好きだ。
 ところが、この元気がアダになった。教えてもらった曲がり角を行き過ぎてしまい、あとで調べると3倍も直進してしまっていた。ちょっと変だな、と思ってガソリンスタンドで尋ねると、あっちの方と言って、元来た斜め方向を指す。それからまたしばらく歩いて、今度は早めに道を聞いた。すると、また丁寧に教えてもらったが、まだ先だと言う。私はだいぶ行き過ぎてしまったのだ。
 ところが、また、ところが、である。私の歩く速度が速過ぎるのか、教えてもらったビルとおぼしき所まで行って、通行人に尋ねると、また激しく行き過ぎていた。やっと目的のビルが視界に入っていたが、300メートルくらい戻る方向にあった。
 目的地は紀伊国屋書店である。真っ先に新刊本コーナーで『美しき魔方陣』を探したが見つからない。小学館文庫の棚へ行ってみたが、ない。(くそ。新刊なのに……)とぶうたれながらも、ガイドブックの棚へ行って真剣に品定めした。ガイドブックとしては「るるぶ」と「まっぷる」を比較して、今回は「まっぷる」にした。ミーハーだねえ(笑)。さらに来週の学会がある小樽のポケット版ガイドブックも購入した。
 書店を出るときに、未練たらしく新刊本コーナーを再点検したら、『美しき魔方陣』が棚指しで3冊置いてあった。背表紙だけじゃ目立たない! 平置きにしてやろうかと思ったが、何となくせこい気がして、やめた。
 ホテルでは、学会発表のための勉強をして、早めに就寝した。

10月13日(土)「待ってくれていた秋明菊・・・の風さん」
 インターネット予約してあったレンタカーを借りて、9時過ぎに岡山駅前を出発した。目的地は備中松山城。天守閣が最も高地にある山城である。『美しき魔方陣』で主人公の子供の頃の記憶として備中松山城に登るシーンを描いたが、実は、今日まで現地へ行く余裕がなかった。お金の問題でなく、時間がなかったのだ(単なる言い訳)。
 愛媛県の松山城も山の上にあり、縄張り(この単語はお城用語である)がよく似ていたので、8月の全国和算研究(松山)大会に参加したときに登って雰囲気を体験する予定だったが、猛暑の中、めまいで体調不良になってしまい、観光を中止して帰宅したことは気まぐれ日記にも書いた。
 昨夜購入したガイドブックで、高梁市(たかはしし)に至る道順や、現地の観光名所などを、しっかり予習してあったので、いちおうナビもセットしたが、安心して出発した。
 180号線を通れば現地までは一本道である。レンタカー屋の人も高速で行く必要はないでしょう、と言っていたが、時間のない私は、予想到着時間を見ているうちに途中で気が変わった。総社インターから高速に乗って、賀陽(かよう)インターで降りた。そこからは信じられないような田舎道を10kmほど走り下って、高梁市内に入った。
 電車で備中松山城を訪れる人は、JR高梁駅からタクシーを利用することになるが、私はレンタカーだ。バスも通れぬ超狭い道をぐいぐい登って行くと、無料駐車場に着いた。平日はさらに上の8合目鞴峠(ふいごとうげ)まで行けるのだが、混雑する土日は、ここから先はシャトルバスかタクシーしか通さないのだと言う。ここからお城まで歩けば50分かかると聞いたので、私は一人でシャトルバスに乗った。シャトルバスはマイクロバスで、すれ違うことができない道を鞴峠まで登った。
 シャトルバスを降りると、入れ違いにシャトルバスで山を降りる人たちが乗り込んだ。
 ここから天守閣のある頂上まで700mという看板が出ていた。山は樹木で覆われていて、頂上は見えない。道は山肌に沿って登るので薄暗く、どんぐりや栗が落ちている。石段もあるが、地面は苔むしている。前方をアベックが一組手をつないで登っている他、観光客は見えない。
 山の斜面の町寄りを登るときは、眼下に高梁市の町並みが遠く望まれる。標高400mを超える位置に建つ山城だ。この城に籠もったら、よほどのことがない限り戦に負けることはあるまい。
 おっと。小説のように緻密に描写していたら、日記でなくなってしまう。適当に切り上げよう。
 麓から秋色濃く、登れば登るほど落ち葉は厚く地面を覆い、樹木は色を失い、山は枯葉色に染められていく。ここまで来て、大きな目的の一つである秋明菊(しゅうめいぎく)との出会いは、期待薄だと判断せざるを得なかった。備中松山城の石垣の周辺に咲く、赤色だけの秋明菊。小説の中の重要な色彩であり、モチーフである。
 次第に私は落ち込んできた。どこまでも坂道が続き、汗がしたたり落ちるほどになってきて、きついと音を上げたわけではない。秋明菊との出会いがこの時期でも無理だったとすると、小説の中で登場させた時期が間違っていたのではないかと猛烈に反省し出したのである。作家としての自分の未熟さを痛感し出したのである。
 ようやく大手門跡にたどり着いた。小説では主人公一家がここで一息つく。私は持参のデジカメであらゆる角度から写真撮影をして、この場をしっかり記録しておこうとした。
 小説に描写したのと同じように、平櫓(ひらやぐら)や厩曲輪(うまやぐるわ)を通って大きく右に曲がりながら、石段を登っていった。今では石垣ぐらいしか残っていないが、山の頂上の形に合わせて無理なく無駄なく配置された建物が、すべて揃っていたときの美しさは想像できる。鉄門から二の丸へ出ると、目の前に天守閣の上部が見えてきた。さらに石段を登って南御門から本丸へ入ると、二層の天守閣の全容が目の前にあった。私は視線を天守閣へ向け、汗を拭いながら近づいて行った。愛知県では規模という点で、犬山城に少し似ている気がした。
 ……と、何気なく足元に目をやった私は、思わず声を上げそうになった。天守閣を支える石垣の周囲に、赤い花が無数に咲き誇っているではないか! そう。秋明菊だった。花の盛りはやや過ぎた感はあるが、それでもたくさんの秋明菊がそこかしこに咲いている。麓からここまで花らしい花など一輪も咲いていなかったのに、どこもかしこも晩秋の装いという以上に枯れた世界が広がっていたのに、ここにだけは、秋明菊が目も鮮やかに咲いている。濃い赤紫とやや薄い紅色の秋明菊だった。
(待っていてくれたのか……)
 私は秋明菊がいとおしく、感動で涙がにじんできた。
 私の創作した主人公の子供の頃のシーンだが、それが私の中では、現実にあったことになった瞬間だった。作品を書いてよかった。作者だけが得ることのできる満足感かもしれない。
 
(つづき)
 天守閣の周囲をめぐりながらデジカメで秋明菊をたくさん撮った。
 そして、やっと天守閣に入り、内部を見学した。城主一家がいよいよ落城となったときに籠って自害する「装束の間」が印象深かった。囲炉裏があるのも珍しかった。二層なので梯子段で二階へ上がることができる。そこには祭壇があった。今はまるで小屋の内部のような天守閣だが、かつて何代にもわたって城主が交代しながら、ここで国を治め、戦をし、家族との時を過ごしていた筈だ。受城使としてやってきた大石内蔵助も、ここに入った筈である。そういった人々の息遣いが私には感じられる気がする。
 再び700mの坂道を通って鞴峠まで下山し、シャトルバスで麓の駐車場まで降りた。汗でびっしょりだったので、シャツだけ脱いで、ワイシャツを素肌の上に羽織った。
 高梁市内では、武家屋敷、御根小屋跡、商家資料館を見学してから、歩いて高梁川の流れを見に行き、これが最後と思って高梁市歴史美術館へ行ったら、あいにく資料の入れ替えで閉館していた。それで、スキップした頼久寺へ戻って小堀遠州が作った庭園を見学し、基督教会、紺屋川美観地区を歩いて回ってから、午後2時半に遅い昼食を「ぶっかけおろしうどん」で済ませ、ようやく帰途についた。
 180号線から484号線の田舎道を登って、賀陽インターから岡山自動車道に入り、総社インターで降りるという、往路と完全逆パターンである。
 岡山市内で満タン給油し、予定の午後4時きっかりにレンタカーを返した。走行距離は180kmほどで、燃費は12km/Lを超えていた。
 予定の新幹線を乗り継いで、午後8時前に帰宅した。
 数えてみたら、今日だけでデジカメ写真を181枚も撮影していた。充実した取材旅行だったわけだ。

10月14日(日)「ひたすら学会発表資料作り・・・の風さん」
 取材帰りで日曜だったが、早起きした。何が何でも学会発表の資料を作成してしまわなければならない。
 朝食後すぐに取り掛かった。必須のビラから作り始めた。つまりシミュレーション結果グラフである。これだけで5枚もある。昼までかかった。
 昼食後も、雑用には全く手を出さずに、ひたすらビラ作り。
 そうこうしている時に、楠木誠一郎さんからまた新刊が届いた。『「同級生」で読む日本史・世界史』(光文社新書)である。楠木さんの既著『日本史・世界史 同時代比較年表』(朝日選書)と似た着想で、同じ年に誕生した洋の東西の有名人を示すことで、歴史の面白さ、不思議さを再認識させてくれる好著である。
 夜になって発表ビラが行き詰ってきた。ここで停滞してしまうと、きわめて効率が悪い。最後のご奉公となる「大衆文芸」執筆依頼確認をすることにした。年間寄稿計画を見て驚いた。自分が随筆の担当になっていた。計画外の時期に緊急依頼されて書いたから、やめておこうと思う。それより、今年予定していて着手すらできていない短編こそ、本来なら書かねばならない原稿である。しかし、今の状態では、年内は無理だろう。
 深夜、途中までだったが、学会発表のビラをpdf化し、メール添付して大野先生へ送信した。火曜日に本山キャンパスまで相談に行くつもりだ。

10月15日(月)「15日・・・の風さん」
 毎月15日は新鷹会の勉強会が開催される。曜日は関係ない。既に700回をはるかに超えているはずだ。玉音放送が流れた昭和20年8月15日にも開催されていたというから、60年以上続いていることになる。その勉強会に、最近は色々な理由からほとんど出席していない。
 今日の勉強会も、あとで聞いた話では、盛況だったらしく、おまけに平岩弓枝先生が、8月から3ヶ月連続で出席されたそうだ。
 先月、たまたま出席したときに、近々『美しき魔方陣』が出版されます、と報告してあったし、とっくに届いているはずだから、今日、もし出席していたら、手厳しい感想を一言二言うかがえたかもしれない。
 今日も多忙な会社生活を終えて帰宅した。
 小樽の学会へ持参するモバイルパソコン、アシュレイのバッテリの再生(内部の電池の交換)が何とか間に合った。
 大野先生からはまだ返信がない。
 夕食に赤飯が出た。
 実は、今日は私の54回目の誕生日である。

10月17日(水)「大野先生のご指導が受けられず・・・の風さん」
 学会発表資料の指導を受けるため、19時に大野先生と本山キャンパスで約束していた。もしかすると、受指導後に一緒に夕食を、となるかもしれないので、対応できるように、今日は電車で出社した。ところが、会社の仕事が緊急事態となってしまったため、どうしても定時後に常務へ説明に行かなければならなくなってしまった。こういうのが、会社の仕事の特徴である。毎日が、突然の事態に適切かつ迅速・柔軟に対応することの連続なのだ。
 先生の指導が受けられないのは痛いが、本社へ出張して帰りが遅くなり、一人で資料を修正する時間すらなくなってしまうのは、もっと痛い。そこで、いったん帰宅して、ミッシェルで本社へ出張することにした。製作所最寄の駅までは会社バスがある。
 ところが、それに乗り遅れてしまった。止むを得ず、同僚に駅まで送ってもらった(笑)。電車は連絡が悪く、2回乗り換えてやっと帰宅できた(まるで住んでいるところは陸の孤島だな)。
 深刻な仕事で急遽本社へ出張したのだが、たまたま専務がその場にいらっしゃったので、常務とお二人に『美しき魔方陣』を進呈した(何やってんだか……(^_^;))。
 帰宅し、午前零時ごろ、食堂のテーブルの上に『美しき魔方陣』を並べてサインをしていたら、次女がバースデー・プレゼントをくれた。手製の篆刻の雅印で「なるみふう」と四角い枠の中に踊るようなひらがなが配置してある。美術科の高校生だけあって、なかなかカッコいい。今回の『美しき魔方陣』には、会社で以前部下だった人から頂戴した、これも同じく手製の篆刻の雅印を使っているのだが、次は、次女の雅印を使おうと思った。
 
10月18日(木)「有意義な工場見学だったが・・・の風さん」
 生産技術研究部会の仕事で朝から京都へ出張した。訪問先は、私にとっては15年ぶり2度目の見学になる。以前もそのビジネススタイルに感心していたので、その後の進化ぶりを確認したかった。
 京都とはいっても、実は日本海に近い場所にある。自宅から現地まで片道4時間以上かかる。
 週間天気予報では、週末の札幌は傘のマークで悲惨だが、今日の京都は快晴だった。暑いくらいである。
 訪問先の企業は期待以上に進化していた。凄みを増していた。危機が叫ばれていたが、日本のモノづくりはやはりたいしたものである。あらゆる改善手法を導入し、徹底して使い切ることで効果を上げていた。説明する人の言葉の端々からその手応えをつかんでいる人独特の自信がうかがえた。特に自分の勤務先で日常使われている単語、それらは自動車業界だけのものかと思っていたが、決してそうではなく、良いものは業界の垣根を越えて普及しているのだ。長年モノづくりに関わってきた者としてうれしい。
 予定通りにスケジュールを終えて、訪問地を去る段になってトラブルが発生した。先ず特急に乗車するのだが、始発地が豪雨になっているらしく遅れが生じていた。そのため、京都での乗り換えの新幹線を後ろへずらす必要があった。もともと電車の連絡は悪い土地柄である。
 その特急は、やがて到着したが、なかなか駅を出発しない。京都までもノロノロ走る。とうとう京都で乗り換える予定の新幹線にも間に合わなくなってしまった。
 結局、帰宅したのは午後9時半過ぎで、帰りはたっぷり5時間もかかってしまった。学会発表の準備ができず、気持ちがますます焦る。

10月19日(金)「直前にこんなことやるか?・・・の風さん」
 当初スケジュールでは本社出張だったが、朝一から製作所で緊急ミーティングになってしまった。それで、本社へ行ったらやろうと思っていた作家活動ができなくなったので、その断りの電話を各所へ入れた。
 頭の中では明日の学会発表のことが気になってしようがないのだが、ちっとも進展がない。目の前の課題で心身のストレスが急上昇しているのだから、仕方ない。とうとう夕方になってしまった。
 製作所では明後日フェスタが開催される。従業員の家族や地域の人たちに広場を開放して、さまざまのイベントをおこなうのだ。ボランティア活動も組み込まれていて、衣料品回収というのがある。アフリカや中近東、南米などの貧困国へ送られる。当日参加できない私は、ワイフが用意してくれた紙バッグ2つ分の衣料品を事務局へ届け、輸送代を若干寄付した。
 もうこれ以上、会社で時間を消化するわけにはいかない。私はあたふたと退社してミッシェルに乗り込んだ。
 かなり走った頃、突然、とんでもないことに気が付いた。名刺入れの中の名刺が切れたままだった。補充しようと思ってすっかり忘れていた。作家の名刺はたっぷり入っているが、会社の名刺が切れているのだ。今さら引き返す気にもなれず、そのまま帰宅した。
 しかし、学会でまた先生方との新たな出会いがあるに決まっている。そのとき名刺を持っていないのは、あまりにも不便だ。とうとう私は、名刺を作ることにした。
 夕食後、残っていた名刺をスキャナーで読み取って、そのデータを名刺印刷ソフトへ貼り付け、専用用紙(ワイフが所有)へ印刷した。10枚の会社名刺が出来上がった。
 明日は5時半起きだというのに、前夜に何をやってんだか(^_^;)。

10月20日(土)「学会デビュー戦・・・の風さん」
 5時半起床。雨は降っていないが、外はまだ真っ暗だ。冬至に向かって着実に夜明けは遅くなっている。自然の偉大なことは、人間界で何が起ころうと、そのリズムを崩さないことだ。もっとも、愚かな人間の暴挙で、その自然までが歯車を狂わせている面も、ないことはないのだが。
 昨日からずっと頭を離れないことは、今日の発表ビラのスリム化である。質疑応答含めて20分に対し、メインのビラが20枚で、おまけに2分半のビデオがついているのでは、あまりにも多過ぎる。今朝も出発の準備をしながら頭の隅で考え続けたが、良い案が浮かばない。
 6時半にミッシェルで自宅を出発。有料道路をぶっ飛ばして、20分でセントレアに着いた。走行距離が28kmだったので、平均速度は84km/時となる。ひょえー!
 最近プロペラ機に搭乗することが多いが、今日の便はジェット機で、左右に3席ずつある中型機だ。これで高度1万メートルをジェット気流に乗って、新千歳まで1時間10分で飛ぶ。若いふざけた格好の団体が一緒だったので、定刻の7時半に少し遅れて出発した。あいつらはきっとケータイの電源も切ってはいなかったろう。寝不足だったので、機内では終始うつらうつらしていた。ドリンクサービスは、コーヒーは味が最低なことが分かっているので、コンソメスープにした。
 人生2度目の北海道である。1度目は中学校の修学旅行だったから、もう40年も前のことになる。光陰矢のごとし。雨はほとんど降っていない。セントレアが人工島の上にあって狭いので、新千歳空港が途方もなく広く感じられた。JR快速エアポート号が出発する前に、コーヒースタンドで美味いコーヒーを飲んだ。たったの150円だった。
 エアポート号の車窓から眺める北海道の風景が珍しかった。普通の民家の構造が内地と異なっている。四角柱の形をした煙突のある家が多い。積雪対策なのか、中央部がへこんだ屋根の家もある。流水か電気で雪を解かし、中央から水にして流してしまうのだろう。したがって瓦屋根の家なんかない。パステルカラーの家が多いのも、何となく異郷に来た感じがする。
 札幌を過ぎる頃には青空が覗いてきた。
 この時点で、発表資料のスリム化の方法を決断した。雨はまだ降りそうもなく、いくらか元気が出てきたので、初めてガイドブックを開いて小樽観光スポットを研究し始めた。その結果、学会会場の小樽商科大学へ行く前に、小樽運河の北の部分を散策しておこうと思った。ところが、この頃から、なぜか鼻水とくしゃみが止まらなくなり、風邪をひいたような気がしてきた。
 小樽駅に着いた。傘をさすほどではないが、ぽつりぽつりと雨が落ちていた。やや冷たい雨だ。こっちは夏物のウールのスーツだけだが、地元の人たちの中にはコートを着ている人もいた。
 まっすぐ海を目指した。荷物はあるが歩くのは好きだ。それでも、ありがたいことに海へ向かってゆるやかに道は下っている。途中のドラッグストアで風邪薬を買った。想定外の出費。
 運河にかかる中央橋のところにたどり着き、石畳になっている散策路を北へ向かって歩き、気に入ったポイントで写真を撮った。小樽の魅力は、この歴史を感じさせる運河周辺だ。船もけっこう係留されている。小樽港へも足を伸ばした。再び戻って北浜橋を過ぎたあたりで運河周辺散策を終了することにした。途中のレストランで血の出るようなレアのステーキを奮発し、風邪薬を飲んだ。これで暖かくして仮眠できれば、風邪など吹っ飛ぶのだろうが。そこからタクシーで小樽商科大学へ向かった。
 受付を済ませ、すぐに発表資料のスリム化に取り組んだ。風邪薬がなかなか効いてこないので、効率が上がらない。それでも、3枚省略し、3枚のビラの密度をいくらか低減した。まだ不安は残っているが、以前よりはだいぶ気が楽になった。
 ……しかし、本番で、15分をいくらか過ぎたところで、座長から「時間オーバー」の警告が入ったため、急いで終了させねばならなかった。やはり2分半のビデオを入れたのが無理だったか。とはいえ、そのビデオの効果か質問も二つ出て、どうにか研究発表の格好はついた。しかし、完璧主義の風さんとしては大いに不満と反省材料の残る発表だった。これは、論文で取り返さなければならない。
 研究発表が終わってふと外を見ると、激しい雨になっていた。
 懇親会で大野先生から何人かの先生を紹介された。これからの研究に協力してもらえそうな良い先生ばかりである。
 懇親会を早々に引き上げた私は、タクシーと電車を使って札幌へ向かった。今宵の宿が小樽で取れなくて(選り好みしたせいもあり)、札幌になったのである。私の次の狙いは本場の札幌ラーメンを堪能することだった。うまい具合に札幌では雨が降っていなかった。また、私は歩き出した。時計台を過ぎ、テレビ塔を横目に見てさらに「すすきの」まで行った。カラオケや怪しい店に誘う男女が街角ごとにいたが、なぜか私には声をかけてこない。余命いくばくもない老人に見えたのだろう。
 ガイドブックに載っているラーメン屋を発見した。小さな店だ。その前に行列ができていた。これでは1時間待っても美味いラーメンにはありつけそうもなかった。未練たらしく、その行列風景の写真を撮って、近所の別の店に入った。一見美味そうな印象がした。私はカウンターに陣取り、躊躇なくその店で一番高い味噌ラーメンを注文した。
 結果。どうという味ではなかった。私が子供の頃初めて出会った太い麺の札幌ラーメンとは違っていたのだ。
 誰も遊んでくれそうもないし、タクシーを拾って、ホテルへ帰ってさっさと寝ることにした。

10月21日(日)「札幌ラーメン〜・・・の風さん」
 8時にホテルを出発したかったので、6時半に起床。外を見てみると昨日とよく似た天気。雨は降っていないが太陽も見えない。
 ホテルでのビュッフェ朝食が大変だった。中国人の(中国語を喋っているから中国人だと思う。ただし、北京語ではなさそう)団体が並んでいるほど混雑していた。昼はパンで夜はまた札幌ラーメンにしたいので、今朝は和食にした。
 タクシーで札幌駅に着き、ホームへ出ると、ちょうどニセコ号が出るところだった。C11である。先頭はディーゼル車で次がC11、その後ろに古いタイプの客車が連なっている(タイプを確認する余裕なし)。このニセコ号は土日と祝日だけ特別に走るもので、小樽からはディーゼル車は切り離されて、C11の力で走るらしい。急いでデジカメを用意している間に、耳をつんざくような汽笛が轟いて、やがて列車が動き出した。汽笛には胸をゆさぶる哀調がある。
 今日は、午前10時から午後3時20分まで、みっちりと他人の発表を聴講した。昨日の落ち込みから立ち直った風さんは、春季大会のときと同様に、冷静に発表を聴くことができた。その間に、他大学の先生方と、また新たなネットワークを構築することができた。ややショックだったのは、以前から存じ上げている先生と何年ぶりかで言葉を交わしたのだが、昨日の私のヘボ発表を聴講しておられたそうで、顔から火が出そうになった。
 学会が終了すると、私だけでなく、ほとんどの先生方があわただしく会場を後にする。せっかくだから小樽を楽しんで帰ろうとされているのだ。うまい具合に、雨は降っておらず、風は冷たいが、何とか観光はできそうだ。
 本当は小樽築港駅まで移動して石原裕次郎記念館を見学したかったのだが、それだけの時間的な余裕はない。結局、小樽散策コースの探検をすることにした。
 スタート地点はオルゴール堂本館。ここから見物と買い物をしながら北上して小樽駅まで行くのだ。オルゴール堂では、照明効果を駆使したおびただしい数の商品の展示に圧倒された。外へ出て、「流氷凍(しば)れ館」へ行った。入口に雪が置かれていた。入場料を支払えばマイナス20℃の世界を体験できる。ところが、そういった環境の中では、ケータイやデジカメは「壊れます」と掲示してあった。それに気勢を削がれたので、諦めて外へ出た。外も寒い。それでも観光客がぞろぞろと歩いている。洋菓子のルタオ、北一硝子、六花亭北の大地美術館などに寄りながら、小樽浪漫堂まで来た。すっかり宵闇があたりを包んで、古い建造物はライトアップされていて美しい。通りから外れて出抜き小路を覗いた。妖しい横丁だ。
 そろそろ時間がなくなってきたので、通りから外れた。上り坂を登る。旧銀行の建造物が多い地区だ。単線の鉄道跡をまたぐ。さらに進むとアーケード街があった。内部でも気温が10℃しかない。寒いわけだ。
 あっという間に小樽を去る時が来た。エアポート号に乗り込んだ。新千歳空港まで1時間10分かかる。うつらうつらしながらも、ときどき寒さで目が覚めた。
 空港で札幌ラーメンに挑んだ。塩バター・コーン・ラーメン。昨夜のよりも美味かったが、子供の頃に出会った札幌ラーメンの麺ではなかった。思い出の味との出会いは、次回に持ち越された。その次回がいつになるかは全く予想が立たないが……。

10月24日(水)「熟年夫婦の会話?・・・の風さん」
 朝刊を開いたら、76歳で学位という記事が目に飛び込んだ。名古屋大学で文学博士を取得した方の記事で、これまでの最高齢の更新だという。ちょっと指を折って数えてみると、自分がうまくいって学位を取得したときは56歳になっている。それより20歳も上だということだ。30代から早くも物忘れがひどくなり、現在ではありとあらゆる局面で老化を感じ、気持ちの上で挫けそうになることもしばしばである(半分嘘)。学問は一生だとは思うが、やはり若いに越したことはない。
 無我夢中で時間が過ぎ、日が暮れたので、焦って帰宅した(仕事がひと区切りして帰宅できるほどヒマではない)。ちょうどワイフも外出から帰ったところだったらしい。何やら慌てている。
 電子レンジの上に柿ピーの小袋が乗っているのを発見した。口が開いている。
「柿ピー、発見!」
「しまった! ばれたか……」
「どういう意味だ?」
「お腹が空いていたので、晩御飯の支度の前に食べようと思ったのに、貴方が帰ってくるから……」
「そんな言い方はないだろう? 一人で食べようと思っていたら、ちょうど貴方が帰ってきたので、一緒に食べられるのでうれしくなった、と言うべきだろう?」
「そんな心にもないことを……」
 夕食後、書斎で思いっきり雑用を片付けていった。

10月25日(木)「これぞ気まぐれ日記か・・・の風さん」
 十日ぶりに気まぐれ日記を更新したので、驚かれている読者も多いでしょう。病気とかいったシリアスな状況だったわけではありません。ただ、本当に多忙だったものですから……(これまでの超多忙は嘘?)。
 しばらく軽めの日記を書いていこう。
 久しぶりに実施された全国統一学力テストの結果が公表された。技術者のはしくれとしてひと言いわせてもらうなら、分析作業は大変だし、高度な見識が必要だ。一見有意差がありそうに見えて、実は「統計上の嘘」と言われるものだったりすることもある。そういった認識を前提にして、私は正確さよりも何事も前向きにとらえることを信条にしているので、コメントさせていただく。物議をかもすことも辞さず。では。小中高と育った秋田県が全国トップクラスだったのでうれしかった(^_^;)。

10月26日(金)「鳴海風検索のヒット数が急増・・・の風さん」
『美しき魔方陣』を出す前から、ある期待があった。ヤフー検索で鳴海風のヒット数が増加することである。本が出版されることの世の中への影響には、はかりしれないものがある。インターネットが普及した現代、それが手に取るように分かるのが、ネットでの検索のヒット数ではないだろうか。
 本を出版したあと、年内には何回かの講演も予定されていて、その話題も光の速度の半分の速さで伝わり始める。年末までには、かなりのヒット数になって、うまくすれば拙著も売れるし、来年以降の出版に良い影響が出るのではないか、と舌なめずりしながら体内そろばんを弾いていた(^_^;)。
 そうしたら、どうだろう。ついこの間まで、せいぜい500件程度しかヒットしなかった鳴海風の検索が、一気に3600まで増えたのである!
 なーんだ、その程度か、と言われている間は憎まれることはないだろうから、他人の評価はむろん私は気にかけない。でも、予想が期待以上の早さで当たったのはうれしいのである。
 少し原因を調べてみると、群馬大学の瀬山士郎先生が『美しき魔方陣』について、ご自身のホームページでコメントを書いてくださっていた、それから、11月末の講演のお知らせが会場となる図書館のホームページにアップされていた、……。
 来週の講演の準備を真面目にやらねば……。

10月27日(土)「泊まりの飲み会・・・の風さん」
 昨夜からの雨はまだ上がらない。朝刊の天気予報を見ると、昼前には止んで夕方から晴れるそうだから、職場の旅行には予定通り電車で行こう。
 いよいよ講演の準備を開始した。幕末を数学者がどう生きたか、というものである。今回のパターンの初演(こう言うのかな?)は2001年である。当時の資料を見ると、やはり散漫な構成で、的が絞られていない。その後、『怒濤逆巻くも』を出版してから、ポイントが明確になった。2003年、2004年と講演し、さらに今年、咸臨丸子孫の会で、子孫向けにアレンジした内容で講演した。
 今回はさらに対象が経営者に絞られ、テーマは数学者というより技術者に広げられている。いつも通りに意外性を見せつつ、日本人に元気を与えるのが狙いだ。
 そうこうしているうちに、職場の旅行に行くために乗車する電車の時刻が過ぎてしまった。予報に反して雨もまだぽつぽつ降っているので、ミッシェルで出かけることにした。目的地までは片道約50kmである。電車の中で読書する計画は頓挫したが仕方ない。着の身着のまま家を出た。
 職場の旅行とは言っても、泊まりの飲み会みたいなものである。温泉に泊まって、宴会をやり、余興のゲームをやり、少しだけカラオケもやって、その後、部屋で2次会。日頃忙しい職場なので、のんびりできたことがよかった。

10月28日(日)「温泉から書斎へ直行・・・の風さん」
 一夜明けて雲ひとつない秋晴れとなった。
 朝風呂に入って(これでいつも通り3回目)、バイキングの朝食を摂り、お土産をちょっと買って、私はミッシェルで帰った。いちおう観光地だし、今日は地元のお祭りなので、遊びに行った連中もいただろう。
 帰宅したら、新刊が届いていた。辻真先先生と横山光輝氏のコラボレイトによる劇画『戦国獅子伝』の完結編、京大の上野先生のお母さんの『源氏物語』第五巻、第六巻、そして鈴木輝一郎さんの『戦国の鬼 森武蔵』(出版芸術社 1900円税別)である。辻先生の劇画にはワイフが酔い痴れていて、また夜更かしがひどくなるだろう。『源氏物語』はようやく第六巻までたどり着いた。輝一郎さんの『戦国の鬼 森武蔵』は2段組で400ページを超える大作である。とりあえずあとがきを読んでみると、力みがなくさらりと書き上げている。あまり共感を呼びそうもない非情の主人公を、どのように描いているのか読むのが楽しみだ(……と書いてはみたものの、つん読状態が山のようにある)。
 書斎に入り、昨日の講演資料作成の続きをした。住んでいる土地の文化祭が体育館で開催され、ワイフのトール教室も例年通りに展示しているが、今年は見学はパスすることにした。
 
10月29日(月)「何も準備できない講演前日・・・の風さん」
 いよいよ明日から「講演、秋の陣」の始まりだ。12月まで5つある。
 本格的に準備を開始したのが土曜日からだから、前日である今日は、会社から帰宅したら、最後の追い込みをやらなければならない……筈である。
 ところが、そうは問屋が卸さないのが現実の世の中である。
 ワイフのトール教室の地元の文化祭での展示は昨日で終わったが、2年に1度の作品展が1ヶ月後にある。このための案内状を、どうしても今夜作成したいと言うのだ! 
 帰宅して夕食を摂った後、サンルームにある共用パソコンに向かった。トラブルがあって削除してあったハガキ作成ソフトを、再インストールするところから始まった。続けて、案内状に使いたいデジカメ写真をパソコンに取り込んだ(これにも予想外のトラブルがあった)。2年前の案内状を下書きに、デジカメ写真を入れ替え、タイトルや開催月日を変更して、ようやくお試し印刷もできた。うまく行ったので、さあ連続印刷、と思ったら、インクカートリッジがなくなって交換……。
 すべて終わったところで、もう疲れてしまい、さっさと寝て、明日の朝、頑張ることにした。

10月30日(火)「人と人の縁の妙・・・の風さん」
 やはり早起きはできなかった(笑)。まだ老人ではない……じゃなくって、もともと早起きは苦手だ。きっと僕は夜中に生まれたに違いない。
 それでも1時間くらいは資料をリファインする時間があったので、書斎で取り組んだ。やり始めると夢中になるのがいつもの悪い癖。やはり電車で行くのはやめにして、ミッシェルで行くことにした。これで、30分は余分に修正ができた。
 有料道路を突っ走った。雲ひとつない青空の下、ミッシェルのハンドルを握るのは楽しい。ご機嫌で、会場である刈谷市産業振興センターに着いた。
 今日のイベントは、QCサークル東海支部主催「経営者フォーラム」で、モノづくりを生業にしている会社の経営幹部の方々を対象にした、講演会である。講演者は私のほかに、樹研工業の松浦社長である。
 会社員の鳴海風としては、樹研工業とはかつて縁があった。社長にもお目にかかったことがある。独自の経営方針は、技術者として感銘を受ける内容だった。そのとき、私は自分の正体は明らかにしなかった。後に、別の方から、拙著が松浦社長に届けられたが、社長の反応を聞く機会はなかった。ちなみに社長は大変な読書家である。
 それからまた何年かして、奇妙な因縁を感じる出来事があった。
 作家デビュー前(まだ新鷹会のことも知らなかった頃)の私は、名古屋在住の歴史小説家大内美予子先生の「歴史小説の書き方」という講義を3ヶ月間受けたことがある(このへんは鳴海風のプロフィールに詳しい)。大内先生とはそれ以来、年賀状のやりとりをするぐらいだった。再会の機会は未だにない。その大内先生と数回メール交換をしたことがあり、そのとき、何十年ぶりかで小学校の同級生と偶然再会されたことを書いてこられた。その同級生というのが、どうも松浦社長のような気がしたので、確認してみると、間違いなかった。大内先生と松浦社長の間で、私の話題になり、不思議な偶然に驚かれたようだ。
 それからまた何年かして、今回の講演の機会がやってきたのだ。数年ぶりに大内先生にメールをして、松浦社長と講演をご一緒することになったことを伝えた。
 講演者控え室で何年かぶりに松浦社長にお目にかかり、大内先生の話題を出すと、
「みよちゃん(大内美予子先生のこと)の家とすぐ近くだったんだよ」
 と松浦社長は笑顔で語られた。
 今日の最大の収穫は、松浦社長の胸のすくような講演を聞けたことだった。

10月31日(水)「疲労が抜けない風さんの巻」
 疲労のために早起きできなかった(これは詭弁というかゴマカシだな)。
 昨日の「経営者フォーラム」で名刺交換した方たちへお礼のメールを送ってから出社した。今日も昨日と同じ、清々しい青空が広がっていた。
 会社に着いてすぐ診療所へ。4週間に1度の血圧検査。全く正常だった。
 午後から会議に出席し、たまっていたメールの処理をしているだけで、あっという間に日が暮れた。
 帰宅してもまだ疲労が全身を覆っている感じで、思い切って早寝した。
 ああ、明日からもう11月だ。和算小説の解説書の原稿を書かなければ……。
 
07年11月はここ

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